立体を再確認する瞬間から自分の中で生命も記憶も立体になる

 
他人にとっては他愛もないことでも、自分にとっては大発見、つまり、その後の人生において世の中の見え方が一変する発見というものがある。その中には、当然頭では分かっているつもりであったことを、あらためて身体で感じることで気付かされるということも含まれる。例えば、物事を立体的に考えるという表現があるけれど、喩えではなく、その言葉のまま、ある対象を幾何的な「立体」として再認識する瞬間の小さな感動というものが、自分の体験中で今すぐ思い起こすことが出来るものだけでも三回位ある。今回は、其の事について。

最初は、もう三年前の夏、沖縄の渡嘉敷島でのこと。その日はあいにく少し曇りで、海もきっと全開の青ではなかったと思うが、それでも美ら海だった。シュノーケリングをして海面に浮かびながら、ボーっと下を覘く。そのときに自分の下を悠々と泳いでいた魚たちのなんと「立体」なこと。そう感じさせたのは、呼吸をするための鰓の、その大きさと動きである。山育ちで川にしか遊びなれていない僕にとって、ヤマメにしても鮎にしても、魚は隣を泳ぐものであった。それに川は絶え間なく流れている。それを静かな海に浮かんで、横からではなく、上から見たときに、やっと魚が「立体」だと実感したのである。それからというもの、魚は「立体」である。況してや、大阪江坂「ふぐ甚」の生け簀で泳ぐフグなど。

次は、昨年の夏、新潟の湯沢町苗場スキー場で開催されていたフジロックフェスティバルで、ドラゴンドラ(苗場−田代ゴンドラ)に乗って空中散歩をしていたときのこと。小山を越え、小谷を越え、ゴンドラに揺られながら、ボーっと下を覘く。そのときの木々の葉っぱがこっち、ではなく(最初はそう錯覚したが)太陽の方を向いている様子のなんと「立体」なこと。木々は見上げることの方が多く、これほど森の「立体」に圧倒されたことはなかった。「そういえば「もり」は「盛」でもあり,もりあがった森林が「もり」なのかもしれない.」と『もりやはやし 日本森林誌』(四手井綱英著)という本にもあったけれど、森の「立体」を本当に実感した瞬間だった。同じくらい根っこを張っていることを考えると、二倍の感動である。訳あって帰りのゴンドラではそんな余裕はなかったが。

海や山の中ではなくても、日々の生活の中でふと「立体」に出会うこともある。昨年の秋から大阪大学吹田キャンパスに来て、気になっているもののひとつが、校舎のあちこちにへばりついている蔦である。秋から冬にかけては、まだ生きているのかどうなのか定かではなかった蔦が、この春になって一斉に緑になった。近くにいって見上げると、壁の平面にはりついていると思いこんでいた蔦の、なんと「立体」なこと。垂直に立つ校舎の壁にへばりついている蔦、その葉は水平に太陽の方を向いている。最近、校舎の壁沿いに、上を見上げながら散歩するのが楽しい日課である。

この三回の「立体」との出会いは、僕の中では完全に繋がっている。というのは、山の木々の葉っぱをみながら同時に頭の中では魚が泳いでいたし、校舎の蔦に海山を想っていた。自然の中で生命のかたちというのはどこまでも「立体」であり、記憶というのも時として「立体」になる。

呼吸をしながら、お天道さまの力を借りながら、命をいただきながら、そして命を繋ぎながら、ただ精一杯に生きる。様々な関係性の中に存在し、感謝しながら、謙虚に。恐らくは、それでいいのだ。そんなことを散歩中に幾度か生命の「立体」に出会ったことから考えるようになった。ただ、そうやって生きることの全てには大切な知恵と方法というものがあって、僕としては、それを学びながら、本当の意味で賢く、そしてシンプルに生きることを目指したいと常々思う。

最後に。本サイトがなかなか更新されないので、心配してメールを下さった西千葉「呼吸」の神作店長に、このささやかな便りを届けます。


津田和俊 2009年4月20日

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